鯨に乗ったオッサンと泰国美人

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「イルカに乗った少年」ならぬ「鯨に乗ったオッサン」という話なんだが、時はあたかも天保12年、長く途絶えていた有田焼の輸出が、再開される。久冨与平という人物が、長崎から上海に向けて輸出を再開したのだ。

 肥前の焼き物の貿易が有田の富商久富与次兵衛昌常によって再開されたのは1841(天保12)年。 久富家は鍋島閑叟から屋号の蔵春亭を拝受し、1853(嘉永6)年には長崎に蔵春亭支店を設立した。 店は佐賀藩の事務所としても使用され、大隈重信や江藤新平らも出入りしていたという。
 その与次兵衛昌常の六男が与平昌起。 長崎の店を任され貿易の第一線に立った与平は、英国人トーマス・グラバーと親交を結び、炭坑の共同開発にも着手した。 彼等が開発した炭坑は、後に三菱に引き継がれた高島炭坑である。
 1866(慶応2)年、与平は小城藩主鍋島直虎に建言し、米国ボストンで建造された200tの汽船ドルフィン号を2万3千ドルで購入させた。 これが「大木丸」である。
 与平はこの船を操り、上海へ陶磁器、和紙類、松板、石炭等を輸出し、帰りには新式の武器を輸入するなど、藩のため東奔西走した。
 明治になり、新政府の要人となった江藤新平は、旧知の与平に東京府知事就任をしきりに勧めたが、与平は固辞した。海運と貿易を開始し五大州を廻らんと望んだからだ。
 1870(明治3)年の晩秋、与平を乗せた大木丸は千島沖で台風に遭って難破するという事故が起る。 船は半年余も島から島へ漂流したといわれている。 与平は遭難した船中で病に倒れ「遺体は海中に投ぜよ。死後長鯨に跨って初志を遂げん」と言い残し世を去ったという。 1871年6月、享年40才だった。
 後に大隈重信は「長命であったなら三菱以上の事業を成しとげただろう」と与平のことを回顧している。

今日のティーカップは、その久冨与平の扱った磁器。もちろんアンティークです。欧州からの里帰り品で、手描きです。鮮やかな絵付けで、明治日本の意気込みを感じさせる。素晴らしい逸品です。まぁ、そこそこ安かったんだがw それにしても、「死んだら鯨に乗って五大陸を駆け回るぞ」と、カンラカンラと笑いながら死んだという、傑物です。

さて、そこに合わせるお茶は、「泰国美人茶」なんか怪しげな名前なんだが、タイ北部メーサロンで作られているお茶です。メーサロンには国民党の残党が住んでいて、台湾からの技術供与で高級なウーロン茶を作っている。その中でも最高峰が、「東方美人」と同じ作り方をしたという、この泰国美人茶。東方美人は英語では「オリエンタル・ビューティー」と呼ばれ、台湾紅茶の超絶的な逸品です。こちらも、負けず劣らずの素晴らしい出来で、メーサロンのお茶は相変わらず素晴らしい。メーサロンの連中は、国共内戦の時に、囮となって共産党軍を引き寄せながら逃げ廻った部隊で、彼らのおかげで蒋介石は台湾に逃れる事が出来た。ところが、囮の部隊は大陸に取り残されてしまう。彼らは中国・タイ・ラオス・ビルマなどを転々として、阿片を栽培しながらゲリラ戦を半世紀に渡って続けた。麻薬王と呼ばれたクンサーもお仲間です。それがタイ国王の呼びかけで投降し、メーサロン村に定住した。おいらが最初に行った頃には、山のてっぺんにデカい短波アンテナを建てて、台湾と短波無線でやりとりしていたな。阿片栽培はやめて、その代わりに導入されたのが、ウーロン茶の栽培です。一つのティーカップにも、一杯のお茶にも、人の歩んできた歴史がある。

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