ディアナ号の沈没

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延々と紡いできた、江川さんの話なんだが、おいらも研究者ではないので、あちこちのサイトからのウケウリです。話は佳境に入って、いよいよディアナ号事件だ。ペリーが砲艦外交、恫喝外交にやって来た、ほぼ同時期なんだが、ロシアも日本と交易をしたがっていて、やって来るわけです。ただし、皇帝の命令で、「あくまでも友好的に」という事だったので、ロシアの方が紳士的ですね。当時、世界最大の戦艦とも呼ばれたディアナ号は、折しも襲った安政の大地震の大津波で大損害を受ける。下田の港を襲ったのは、高さ10メートルを越える津波で、下田の人口の半分が流されて死んだと言われるんだが、これで大破した船は、戸田村で修理しようと回航する途中で沈没してしまう。その時に活躍したのが、大場の久八親分の手下たちだったという話もあるんだが、地震で自分たちの家が潰れていたにも関わらず、献身的な努力でロシアの水兵たちの命を救った。ディアナ号は沈んだが、助けられた船員たち、沼津千本浜で無尽蔵に生えている松を見て、さっそく設計図を広げて、代替船の建造計画を始めたというから、たいしたもんだ。その時の設計図が、今でも戸田に残されています。ところで、豆州楽市の担当者が、今、千本浜に住んでますw 確かに、樹齢数百年という立派な松がたくさん生えているw というか、大津波が来ても、千本浜は被害に遭わなかったという事ですね。津波で松林が呑まれていたら、千本浜の松はみんな枯れてます。さて、ディアナ号なんだが、正確な沈没位置というのは不明なんだが、所ジョージの番組で深海艇が突き止めたらしい。ずいぶんと流されて、深いところにあるので、引き揚げはむずかしそうだが。つうか、既に大砲などは全部おろしたあとのガランドウなので、引き揚げてもしようがないです。


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豆州楽市がお届けします。 
ディアナ号の沈没/初出/2007/11/20

日本に洋式帆船の製造技術が伝わったのは、ロシアの軍艦ディアナ号が沈没し、その代替船を戸田村で作った事によるんだが、その件について考えてみる。まず、時代背景とおおまかな事の推移なんだが、こちらのサイトにプチャーチン提督の話が出ていて判りやすいので引用する

1853年(嘉永6)旗艦パルラダ号ほか3隻の黒船を率いて長崎に来航、日露通商・国境制定の件で、幕府全権筒井政憲(まさのり)・川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねた。
翌年ふたたび下田に来航、安政元年(1855)の地震・津波で旗艦ディアナ号が大破した。
老中阿部正弘・韮山代官江川恒庵はロシア人の救難を命じ、日露両国の協力で伊豆西岸戸田(ヘだ)村において洋式帆船が建造された。
同年12月に日露修好条約を結び、千島列島のウルップ島以北を露領、エトロフ島以南を日本領と定め、樺太島は国境を設けず日露共有の地と定めた。
安政5年(1858)にも下田に来航し日露修好通商条約を結び、清国とは天津条約を締結した。
翌1859年に海軍大将に昇進。また日露国交・友好に貢献した功績によって明治14年(1881)日本政府から勲一等旭日章が贈られた。
アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったのに対し、ロシアのプチャーチンは「対話」に徹した。
皇帝ニコライ一世から、「あくまで平和的手段」で「直接の話し合い」により友好の道を開けと、命令されていたのである。

北方領土の問題は、戦後いまだに解決を見てないのだが、そもそもの原点はこのプチャーチン提督の来日にあるわけだ。これを時系列で見るとこうなるんだが、

  • 嘉衛 6.6.5(1853.7.10sun) 香港を出港
  • 嘉衛 6.6.18(1853.7.23sat) 軍艦パルラダ号が香港に到着
  • 嘉永6年(1853)7月
    ロシア使節 極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎来航。
  • 嘉衛 6.7.18(1853.8.22mon) ロシア極東艦隊が開港をもとめ長崎に入港
  • 嘉衛 6.8.17(1853.9.19mon) 長崎奉行大沢豊後守が立山役所で会見
  • 嘉衛 6.12.5(1854.1.3tue) ロシア艦隊が突然長崎に再来
  • 嘉衛 7.1.8(1854.2.5sun) 長崎を退去する
  • 嘉衛 7.8.30(1854.10.21sat) 軍艦ディアナ号が箱館に入る
  • 嘉衛 7.9.19(1854.11.9thu) 軍艦ディアナ号が大坂の安治川口沖へ碇泊
  • 嘉衛 7.9.20(1854.11.10fri) 大坂より下田に入港
  • 嘉衛 7.10.14(1854.12.3sun) 軍艦ディアナ号が下田に入港する。
  • 嘉永7年(1854)10月15日
    プチャーチン(露国使節)、伊豆下田へ来航
  • 嘉永7年(1854)12.12
    修理のため、伊豆下田から伊豆戸田村へ回航中のディアナ号沈没

ところが、下田に滞在中に安政の大地震が起こり、下田の町が壊滅してしまうほどの津波が押し寄せる。港に停泊していたディアナ号も多大な被害を受けるのだが、ゴンチャローフ著「日本渡航記」ではその模様はこう書かれている

「もっとも凄絶立ったのは、海岸がたえず高く見えたり、低く見えたりする変化であった。あるときは艦と水平になるかと思うと、すぐさま6サージェン(注・約13メートル)も高く上がった。(略)胡桃のように粉微塵かと脅されるや、たちまち湾の真中へ投げ出されるという始末であった。やがて、急激な回転が始まった。報告書の記録では30分間に42回転もしたのである。(略)最後に艦は傾斜したまま、しばらく動かなくなってしまった」と乗組員の話を紹介している。
この津波で、ディアナ号の乗組員1人が死亡、2人が負傷したほか、ディアナ号も船体構成の基礎となる竜骨の一部がもぎとられ、舵(かじ)を失ってしまった。また、艦の負担を軽くするため、積載していた52門の大砲を陸に降ろすことを余儀なくされた。

被害を受けながらもディアナ号では流された日本人を救助したりしているのだが、さて、船が壊れてしまったので直さなきゃならない。おなじく富士ニュースのサイトによれば、

この被害によって、プチャーチンはディアナ号の修理場所の貸与を幕府に願い出た。幕府は下田、長津呂、網代、稲取といった修理地を提案したが、プチャーチンはこれを受け入れなかった。
その理由は、下田は日本の選少ない開港地であり、アメリカをはじめ、イギリス、フランスの艦船が入港して可能性が高かったからだ。
結局、被災から13日後の17日、「伊豆国内であれば応接掛の独自の許可で修理地の臨機使用を認める」という許可を川路聖謨が与えた。
日露から調査員を派遣し合ってディアナ号の修理地を船で探した結果、伊豆西岸の駿河湾を北上して見つかった戸田湊が選定された。

当時、ロシアはクリミア戦争をやっていて、イギリスやフランスは敵対国だったのだ。その関係で、下田あたりで敵対国と出くわしていきなり戦争が始まったら大変な迷惑になってしまう。幕府の役人も頭が痛かった事だろう。ただ、幸いにして伊豆は天領であり、代官の江川太郎左衛門が支配していたので、伊豆半島だったらどこでもコントロールが利く。戸田というのは「巾着港」と呼ばれていて、駿河湾が大荒れに荒れても奥が深いので港内は穏やかだ。軍艦というのはカッターボートを積んでいるものなので、カッターボートで伊豆半島を廻ったのだろうか。聞いたところによれば、今でも商船大学では訓練でカッターボートを漕いで伊豆半島を一周するのだそうで、考えただけで気が遠くなりそうだが、昔の人は元気だったんだね。

さて、下田から戸田まで傷ついたディアナ号を曳航しなきゃならないんだが、ここで問題が起きる。ディアナ号というのは横帆の多い三本マストの帆船なんだが、こういう船は背後から風を受けて下るのは得意だが、風上に向かって進む能力はあまり高くない。太平洋横断とかだったら、卓越風をつかまえてそれに乗ればいいんだが、狭くてしょっちゅう風向きが変わる駿河湾などでは小回りがきかないわけだ。しかも津波で被害を受けて、最小限の帆装だったらしい。そのため、土肥まで来たところで低気圧に巻き込まれ、強い南風に流されはじめる

 応急修理と準備や風待ちを過ごして1月13日出帆、応急修理した舵と小規模の帆装で、防水布を巻いた船体を引きずりながら石廊崎をかわして駿河湾に進入、戸田を目指す。大型和船1艘が援護した。
 ところが以後、南風が強まり、遡ろうとしてもただ流されるばかり。ついに宮嶋村三四軒屋浜の沖合に座礁してしまった。
 この時、地元の村民は総出で、打ち寄せる荒波の中、乗員や積み荷の上陸を助け、本船と浜との間に張ったライフラインをボートが往復して、乗り組み全員と相当の資材が陸上に確保された。

土肥でアンカー打って船を止めようとしたんだが、アンカーが利かなかったらしい。帆船というのは流されるモノであって、ヨットに乗っていても目的にまっすぐたどり着けない。船長は「風上へ行け、風上へ行け」と口癖のように言うんだが、それは、帆船というモノはどうしても風下に流されるモノだからだ。そして、南風に流されるままに、船は富士に流れ着く。ディアナ号に乗船していた司祭ワシーリイ・マホフの「ディアナ号航海誌」によれば、

事実、私たちは見た。だが、この目が信じられぬほどの出来事だった。
私たちの運命を見守るべく、早朝から1000人もの日本の男女が押し寄せてきたのである。彼らは奇特にも束になって浜辺を走り回り、何やら気遣っているようであった。つまり、私たちのカッターや無鉄砲な救助隊員のことを心配していたのだ!
日本人たちは、綱に体を結び付けて身構えていた。そして、カッターが岸へ着くやいなやそれを捉え、潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、しっかりと支えてくれたのだ!善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ!

宮嶋村でも、地震の被害で潰れた家が多かったのだが、漁民たちが助けてくれたそうだ。

毎日、町や村から大勢でやって来る日本人たち、わけても宮島村の住民たちは、出来る限りの援助をしてくれた。ある人は大急ぎで囲いの納屋と日除けをつくって、私たちが悪天を避けられるようにしてくれた。また、別な人は上等のゴザや敷物、毛布や綿入れの着物、それに、いろいろな履物を持ってきた米、酒(ウオッカ)、蜜柑、魚、卵を持参した人もあった。何人かの日本人が目の前で上着を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷え込んで震えている水兵たちに与えたのは驚くべきことだった

富士の三四軒家で座礁したディアナ号を、今度は伝馬船で戸田まで引っ張って行こうというので、翌日、多くの伝馬船が集められる。富士・原・我入道・三津の小海の漁師を頭に、百数十艘隻の伝馬船を集め戸田村へと曳き始めたのだが、そこにまた嵐が来て、もやい綱を切り離されたディアナ号は千本浜の沖あたりに沈む。正確な沈没地点は判らない。富士市ではディアナ号探索の試みが昭和の終わり頃に行われたが、発見できなかったようだ。

かくして、ディアナ号は駿河湾の藻屑と消えたのだが、500人の水兵たちは伝馬船に乗り移って命を救われる。そのまま戸田まで回送する事になったのだが、水兵のくせに「もう船はまっぴらだ」とことわり、徒歩で千本松原を歩いて戸田まで向かう。戸田には500人のロシア兵を宿泊させるための設備が整っていたので、とりあえずそこに宿泊させようというわけだ。

 ここでたちまち隊内から、 代船建造の建議が起こる。外洋走行可能な小型帆走艇をこの地で急造して、ロシア本国に救援を求めに走ろう。設計と製作指導は乗員の能力に頼れる。建造体制の確保と人員資材の供給を日本側にお願いしたい。設計図は日本に置いていく。経費は後日ロシア国が支払う。
 日本側は、幕府を先頭にこの提案に載った。洋式の造船技術導入のために、願ってもない話だ。この地に近い韮山代官・江川太郎左右衛門は、この頃、製鉄用の反射炉の建設を試みたりしてきている技術官僚である。建造取締役に任ぜられた。

ところが、この時に「いいチャンスだからロシア兵をみんな殺してしまえ」と主張していた人もいる。水戸藩主徳川斉昭なんだが、さすがにこれは老中に止められる。かくして、幕末の開明派技術官僚・江川太郎左衛門が命を賭した最後の大仕事、日本初の本格的洋式帆船・ヘダ号の建造が始まるのだった。

ところで、自民党の国会議員で斉藤としつぐという人がいるわけだ。例の、大昭和製紙の斉藤一族なんだが、この人が何故か、このディアナ号の物語をアニメにして制作しているAmazonでも買えるようだが、なんで国会議員がディアナ号のアニメを作るのかというと、この時の日露の交流が、樺太を共同統治し、北方四島を日本の帰属にするという国境策定の結果をもたらしたわけで、日露交流の原点であるディアナ号とヘダ号の物語を語り継ぐ事が、将来の北方領土返還につながるのではないか、というような、まぁ、そんな具合なわけだ。戸田ではいまでもロシアとの交流が続いていて、来週もロシアの画家さんが帆船Ami号に乗船に来るんだが、日本初の洋式帆船ヘダ号の末裔である帆船Ami号に乗って、おいらが北方領土を取り返しに行ってきます、という冗談は、まんざら夢物語でもないわけだ。

コメント(5)

レッツさいとうは
何にもしない人という印象ですが
一応ちょこっと仕事してたのね。

歴史の断片が繋がって
江川さんシリーズ面白いです。

5月14日に鳩山会館で行われた日露修好160周年記念展のセレモニーと講演:ディアナ号関連の貴重な資料が多数展示されていた。

ディアナ号のアニメを作った斉藤としつぐ議員と日本政府の反対を押し切ってクリミア半島を訪問したばかりの鳩山由紀夫元首相の二人が座談会。二人は国会議員として同期らしい。ソ連崩壊後には二人でサンクトペテルブルグを訪問したらしく、昔の思い出話で盛り上がっていた。

 ディアナ号でwikiを見ると、日本語版と英語版では、1853年建造で1854年津波で大破し、のちに沈没とある。

 ところが、ロシア語版には、1854年に存在したディアナ号としては、1833年建造で1854年に海軍から引退し解体されたディアナ号があるのみ。その司令官は、1849年までしか書いてないから、1850年ころには動いてなかったということなのか。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94%D0%B8%D0%B0%D0%BD%D0%B0_%28%D1%84%D1%80%D0%B5%D0%B3%D0%B0%D1%82,_1833%29

 どうやら、ロシア語のwikiでは、1853年建造のディアナ号についてはスルーのようだ。
 プチャーチンのロシア語版では、ディアナ号が津波で大破したことは書いてあるんだが。

うん、江川さんシリーズおもしろいです。
クライマックスですね。泣かせるところです。
それにしても斉昭烈公、安定のクオリティ。

>それにしても斉昭烈公

 先週、本屋で勝海舟の氷川清話を立ち読みしてたら、江川さんが烈公に箏曲を所望されたときの逸話が・・

「江川太郎左衛門も、またかなりの人物であつた。その嘉永安政の頃に、海防のために尽力したことは誰も知つて居るだらう。この男は、山の中で成長して、常に狩猟などをして筋骨を練り、明け暮れ武芸に余念がなかつた。が、しかし、人の知らないうちに嗜んで居たと見えて、ある時水戸の屋敷に召されて、烈公から琴を一曲と所望せられたのを、再三辞したけれども、お許しがないから止むを得ず一曲奏でたが、その音悠揚として迫らず、平生武骨なのにも似ないで、いかにも巧妙であつたから、列座そのものが手を拍つて感嘆したといふことだ。」(海舟 氷川清話)

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