ディズニーランドと大場の久八

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金谷農兵隊と民々亭
ドンドル銃とか傍装雷火銃とか
伊豆の罠猟
江川太郎左衛門英龍
パン祖・江川英龍
蛮社の獄事件と江川さん
三島では小学校でエロ唄を教えます
江川太郎左衛門は世襲の代官です
新撰組を作ったのは江川太郎左衛門
水戸黄門漫遊記のモデルは江川さん
【任侠】お台場を作った漢【大場の久八】
天城犬物語

今回は船の話なんだが、江川さんがロシア船ディアナ号の沈没に際して、ロシア兵500名を救い、その代わりにロシア船に乗り込んでいた技術将校から近代的な帆船の作り方を教わって、それが戸田村の船大工によって伝承され、日本の造船史に大きな足跡を残した、というような話です。戸田村は小さな港町だが、幕末史においては大きな位置を占めてます。


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ディズニーランドと大場の久八 初出2007/05/03

ぐっちーさんの金持ちまっしぐらというサイトで黒船・・・と言うけれど・・・というエントリを立てているわけだが、 そこで「日本のディズニーランドは世界一」という話が出てくる。ディズニーランドは世界中あちこちにあるんだが、

実は園内の売り上げは本家アメリカより日本が圧倒的なんだそうで、本家が東京ディズニーランドに見学に来るのだそうです。結論的にはあんな給料で(時給1000円かそこら)あれだけマナーのしっかりした、お金をちょろまかさない従業員(というかアルバイトだよね)を確保するのはアメリカでは不可能だ、ということになるそうで、いっそ日本人を連れて行こうか・・・・となるのだそうです。

で、実際に資生堂は中国であまりのクレームの多さに四苦八苦したあげく、もうやけくそで(多分)、給料が3倍する日本人の美容部員を泣く泣く派遣したところ、売り上げが5倍になったという話もある。ちなみにおいらのタイ事務所の留守番娘の婆さんは、元資生堂の美容部員なんだけどね。どういうわけか金持ちのアメリカ人に見初められて結婚して渡米している。タイではサービス業の家系というのがあって、留守番娘の家系はそれだね。一家揃って、ホテルの支配人とかポーラ化粧品のセールスとかそんなんばっかしだ。日本みたいに、誰でも何の仕事でも器用にこなせる連中ではないので、特定の仕事だけしかできない人が多い。

おいら、ディズニーランドには行った事もないし興味もないんだが、ディズニーシーには「博物館モノの本物の帆船がある」という話は聞いている。いわゆるヨットというのは日本中に無数にあるわけだが、帆船というのは、ほとんどが国とか自治体とかの所有で、民間には皆無に近い。おいらがオーナーの一員として所有しているスクーナーなんか奇跡みたいなもんで、今では駿河湾の名物になっているんだが、ディズニーシーにあるのは本物のアンティークだそうで。それもブリガンティンやらスクーナーやら、小さいけれど風格のある船で、帆船マニアからも高く評価されている。で、作り物の豪華客船と、復元船のカラベル船、ガレオン船と、うまく組み合わせて雰囲気を作っているわけだ。そうしたアメリカ流に構築された施設と、日本人特有のきめ細かい運営が相まって、世界一のディズニーランドになっているわけで、日本人というのはネタを与えられれば、あとの運営は世界中の誰よりうまく、素晴らしい能力を持った
やれば出来る子なのだ。

さて、ここで話は150年前に遡る。ロシアの沈没船が触媒のように日本の歴史を変えた話なんだが。時は幕末、黒船が日本を訪れ、それまで千石船しか知らなかった日本人を仰天させる。アメリカが寄越したのは蒸気船を含む艦隊だったが、一方でロシアもディアナ号という軍艦でやって来る。ところが、ディアナ号は津波と嵐で運悪く沈んでしまうわけだ。で、その時、船員や水兵たちを助けたのが、例の大場の久八一家。久八の手下は3600人と言われ、代官江川太郎左衛門の配下として東京お台場の建設に活躍するなどの、有名な任侠の徒なんだが。たまたまディアナ号が沈没したあたりにも大場の久八の手下がいて、ロシア人を助けたそうだ。

波は絶え間なく次々とカッターを翻弄し、逆巻く激浪が彼らの姿を私たちの視界からさえぎった。『沈没だ!』 私たちは恐怖と絶望に駆られて叫んだ。『助かったぞ!』応ずる声があたりの大気を震わせて伝わってきた。事実、私たちは見た。だが、この目が信じられぬほどの出来事だった。
私たちの運命を見守るべく、早朝から1000人もの日本の男女が押し寄せてきたのである。彼らは奇特にも束になって浜辺を走り回り、何やら気遣っているようであった。つまり、私たちのカッターや無鉄砲な救助隊員のことを心配していたのだ!
日本人たちは、綱に体を結び付けて身構えていた。そして、カッターが岸へ着くやいなやそれを捉え、潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、しっかりと支えてくれたのだ!善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ!

ロシア側の記録にはそう書かれているんだが、攘夷論盛んで一般人は外国との接触すら禁じられていた時代に、外国人を追い払うためのお台場砲台建設をしていた大場の久八の手下たちは、500人の人命を救ったのだ。海の漢の心意気だな。そして、ロシア兵たちは帰国するための船の造船にとりかかる。

ここで活躍したのが代官江川太郎左衛門なんだが、

代艦の設計は、ディアナ号の所持品にあったスクーナー・オープイト号の設計図をもとに、ロシアの技術士官と日本造船世話掛(船大工の棟りょう)によって行われた。2本マストの60人乗りの木造帆船で、全長約25メートル、幅約7メートル、80から100トンほどの船となったという。材料の木材は沼津千本松原から伐採した松材が用いられた。鋼板、鉄板、釘、鋲などは幕府を通じて調達された。

という事で、この船はなんと80日で完成する。伊豆中の船大工が集められたというんだが、実は、幕府側にも考えがあり、世界の水準から大きく遅れをとっていた日本の造船界を、これで一気に追いつこうとしていたのだ。そのため、石川島造船にいた上田寅吉を戸田村に呼び戻し、本格的な洋式帆船の設計を学ばせる。その後上田寅吉は咸臨丸で勝海舟とともにアメリカに渡り、日露戦争ではバルチック艦隊を破った軍艦を設計するなど、日本造船史に名を残す大人物になるわけだが、もう一人、緒明菊三郎の名も地元としては忘れられない。彼はヘダ号建造時にはまだ13歳で下働きだったのだが、そこで造船技術を覚え、東京で一銭蒸気船を作って大成功、やはり日露戦争時には造船王と呼ばれるようになる。彼の作った緒明造船所はお台場にあったのだが、お台場というのは言うまでもなくディアナ号沈没でロシア兵を救った大場の久八が埋め立てた土地だ。江川太郎左衛門、大場の久八、上田寅吉、緒明菊三郎といった伊豆コネクションが幕末から明治にかけて日本の海運史に果たした役割は大きい。

その後、緒明一族は静岡銀行の大株主として何代も頭取をつとめ、日本で一番、資産内容の良い銀行を育てる。ヘダ号造船の指揮をとったプチャーチンはその後も何度か来日、日本人の漂流民を多数救い、外国人として始めて、明治天皇から勲一等旭日章を貰っている。江川太郎左衛門はヘダ号建造の無理がたたって病死してしまうが、彼の残した私塾は今の韮山高等学校へと引き継がれ、おいらという偉人を産んだw また大場の久八は官軍との戦いに破れ、堅気に戻って地元の民百姓のために余生を送ったという、知られざる幕末秘史である。


静岡のプラモデルは日本一/初出2007/05/04

日本一も何も、日本で製造されているプラモデルの85パーセントが静岡県産なんだよね。もともと静岡市界隈というのは天竜川の木材を背景に、木工細工が盛んな土地で、駿河の家具、木工というのは有名だったんだが、教材目的の木材加工を行う科学教材会社や木製玩具会社も多数、この地に生まれ、それがこれらの模型メーカーの源流となったという背景がある。戦前戦後は、ゴム動力で飛ばす模型飛行機というのが流行ったんだよね。おいらの世代くらいまでかな? 竹ひごを炙って曲げてニューム管で繋いで翼を作り、薄い紙を貼る。微妙な調整があって、なかなか難しいもんだけどね。それが戦後、アメリカから入ってきたプラモデルのコピーを売り出すところから始まって、世界に冠たるプラモデル地域になるわけだが。

で、なんでこんな話をしているのかというと「静岡市在住で艦艇模型の設計をしている」という人からメールで、おいらのチョンボの指摘があったわけだ。ディズニーランドと大場の久八というエントリで「上田寅吉は咸臨丸で勝海舟とともにアメリカに渡り、日露戦争ではバルチック艦隊を破った軍艦のほとんどを設計」と書いてしまったんだが、正確さに欠ける記述である。まぁ、おいらの文章はいつも正確さに欠けるんだが、正確には「日露戦争ではバルチック艦隊を破った日本製軍艦のほとんどを設計」という事になる。当時の連合艦隊では、主力艦はイギリス・ドイツ・フランス・イタリアから輸入した軍艦なんだけどね。日露戦争時、日本海軍は軍艦76隻、水雷艇76隻を保有していたというんだが、戦艦や巡洋艦はみんな欧州製だ。日本で作られたのは、砲艦とか水雷艇、駆逐艦といった軍艦で、せいぜい1000屯クラスだ。ちなみに戦艦三笠は15000屯。で、砲艦千早というのが日本海海戦では落伍したロシア戦艦にとどめの雷撃を行っているようだが、まぁ、補助的な艦船だ。

おいらの文章のネタ元はこちらのページで、記述は「寅吉は明治22年に亡くなりましたが、後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計しました」となっている。で、こちらのページでは「後の日露戦争におけるバルチック艦隊との戦いで、日本の連合艦隊が圧倒的勝利を収めますが、その連合艦隊の日本製軍艦全てが、寅吉が設計を手がけたものだそうです」とある。ところが、上田寅吉が死んだのは1890年だ。日露戦争の日本海海戦は1904年なので、14年の差がある。ロシア艦隊にとどめを刺した日本製砲艦(当時は通報艦と呼ばれて、無線の普及してない時代に無線代わりの連絡業務をしていた)千早は、1898年の起工なので、明らかに上田寅吉の設計ではないと思う。また、日露戦争で活躍した国産軍艦である駆逐艦というのも1902年とか1904年の起工なので、これらも違う。第50号級二等水雷艇とか第67号級二等水雷艇といったところが日露戦争で活躍した水雷艇なんだが、これらもみんな、1900年代。1890年代まではイギリスなどから輸入している。

それでは上田寅吉は何を作っていたのか? もっと旧式の、スループ艦清輝天城とか、コルベット艦の海門天竜なんぞがそうだと思うんだけどね。これらは木造の機帆船軍艦で、1870年代に作られている。上田寅吉は50代で、技術者としては油が乗った盛りだったと思われる。明治という時代は軍艦の全盛期なので、革新が早い。10年違ったら物凄い旧式になってしまうし、少なくとも日露戦争の頃までは、日本は「海外の最新鋭船を購入しつつ、その技術を必死で身につけようと努力していた」段階なのだ。

で、元々あまり正確ではないインターネットの記述を、元々あまり正確でない人間であるおいらがパクったのでいい加減な記述になってしまったんだが、幸いな事に読者のレベルが高かったので、こうしてすぐに訂正ができるわけで、インターネットの弱点と強みと、両方を思い知らされたわけです。

コメント(1)

>それでは上田寅吉は何を作っていたのか? もっと旧式の、スループ艦清輝、天城とか、コルベット艦の海門、天竜なんぞがそうだと思うんだけどね。

ビンゴ!

「赤松がみずからの設計で軍艦四隻(清輝・天城・海門・天竜)を建造したのは、横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)所長を務めた1876年(明治9)頃のことです。そして、この四艦の製図を引いたのが上田寅吉でした。」
http://diamond.jp/articles/-/26422?page=2

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