新撰組を作ったのは江川太郎左衛門

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金谷農兵隊と民々亭
ドンドル銃とか傍装雷火銃とか
伊豆の罠猟
江川太郎左衛門英龍
パン祖・江川英龍
蛮社の獄事件と江川さん
三島では小学校でエロ唄を教えます
江川太郎左衛門は世襲の代官です

新選組が作られた経緯にも、江川さんが大きく関係していた、という話です。江川さんは「伊豆韮山の代官」と呼ばれるんだが、伊豆には他にも三島にも代官がいたし、下田にも代官がいた。けれどまた逆に、江川代官の領地というのも、伊豆だけではない。相州、武州、甲州など五カ国に点在している。なので、江川さんはいつも韮山にいたわけじゃない。普段は江戸住まいです。

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新撰組を作ったのは江川太郎左衛門/初出/2008/1/27

江川太郎左衛門英龍が「新撰組」を作った、という話なんだが、英龍は1855年に亡くなり、新撰組は1863年に作られているので、もちろん時代が違う。なので、直接作ったわけじゃない。ただ、英龍がいなければ新撰組は存在しなかっただろう、というのも確かな事なのだ。

まず、江川英龍という人なんだが、幕府の役人であり、当代一の軍事技術者だった。一般的には砲術の大家として知られるが、当時の砲術というのは「自分で大砲や銃を作る」ところから始まるわけで、江川さんは鉄を溶かす溶鉱炉を製造するための耐火煉瓦に使う土を探して伊豆半島中を歩きまわったりしているわけだ。で、江川さんは代々の代官なので、当時の基礎的な学芸をきっちり学んでいるんだが、

英龍は当時最高の教育を受けている。学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田十松。その他、蘭学、砲術などを学んだ。特に剣術は、免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門で後に代官所手代となる斎藤弥九郎は江戸三剣客の一人にも数えられている。

斉藤弥九郎という人は、神道無念流の剣術家であり、江川英龍の終生の友なんだが、1826年、江川英龍の援助で江戸に練兵館という道場をひらくわけだ。その10年後、江川英龍が代官になると、今度は弥九郎が代官英龍の手代となって仕事を助けるんだが、

伊豆国・相模国・甲斐国など五カ国の幕府代官を務める西洋兵学者の江川が、儒学の教養深い斎藤を自分の用人格(ようにんかく)として形式的に召し抱え、斎藤および練兵館の志士たちのスポンサー役を果たしつつ、幕府の危機を彼らに伝え続け、彼らはその貴重な情報を素直に受け止め続けていたのである。

というわけで、江川英龍と神道無念流のラインというのがあるわけなんだが、この線では新撰組の長倉新八が英龍の弟弟子にあたる。で、

江川家の支配地域には武州多摩も入っており、英龍が佐藤彦五郎のような在地の有力な名主たちとともに農兵政策や自警活動を勧めたために、多摩の流派である天然理心流を学ぶものが増えそれが後の新撰組結成に繋がった。新撰組副長・土方歳三は義理の兄である佐藤彦五郎を通じて英龍の農兵構想を学んでいたと言われ、身分を問わない実力主義の新撰組は英龍の近代的な農兵構想の成果ともいえる。

江川英龍のもっとも大きな功績というのは、「身分を問わずに登用し、編成する農兵組織」だと思うんだが、その為に農民にも剣術を学ばせようと、自分の治める土地で啓蒙活動をしていたわけだ。佐藤彦五郎は武蔵の名主であって、土方歳三の姉と結婚していた。近藤勇、土方歳三、沖田総司の三人は、佐藤が自宅で開いていた道場で学んでいた弟子なのだ。それが、天然理心流だ。

ところで、江川英龍と斉藤弥九郎が学んだ神道無念流と、武蔵の国の天然理心流とは、流派を越えた交流があったようだ。

最近、天然理心流門人で土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎がつけていた日記を翻刻した『日野宿叢書第四冊 佐藤彦五郎日記 一』が東京都日野市より発行された。
 これの「万延二辛酉年 正月廿九日、曇、」の項に、「近藤勇方ニて寄合稽古いたし、斎藤矢(弥)九郎門人拾五人、其外櫛節(ママ)富山等之門人、集会稽古有之候、」との一文があった。この「斎藤弥九郎門人」とは錬兵館の門人を指すと思われるが、試衛館門人と錬兵館門人15人による寄合稽古というものがどういった経緯で行われるに至ったのか、そこまでは詳しく書かれていなのでよくわからない。
 しかしそれを謎解く鍵として、佐藤彦五郎が「錬兵館」や「神道無念流」といった言葉を使わず、あえて「斎藤矢(弥)九郎門人」と記していることに注目すべきだろう。佐藤にとっては、「錬兵館」や「神道無念流」よりも「斎藤弥九郎」にこそ意味があったのではないか。そこから考えられるのは、やはり、斎藤と多摩代官・江川英龍、江川と多摩人という図式ではないだろうか。
 佐藤日記の上記一文は「助っ人」という形ではなく「寄合稽古」という形で、斎藤門人達と試衛館が交流を持っていた事を記録しているという点で、非常に貴重である。

天然理心流の道場である試衛館に道場破りが訪れると、斉藤弥九郎の道場である練兵館から助っ人が来て、道場破りを追い返すと宴会をやっていたというから、その密接な関係がうかがわれる。で、

文久3年(1863年)に近藤勇や土方歳三らが、幕府が募集した浪士組に参加して上洛すると、彦五郎は近藤らに支援を続け、のちに新選組となったあとでも、書簡など、親交は続き、上方情勢が逐次伝えられたことは、多摩地方の地域指導者の政治意識にも影響しているとも指摘される。たとえば、土方歳三が京都から上田村(かみだむら/現在の東京都日野市上田)の親戚に書き送った手紙には「委細は彦五郎さんに聞いてくれ」と書いたものが遺されている。資金面など何かにつけ佐藤家とは手紙のやり取りをし、頼みとしていたことが窺われる。

また、近藤勇の上京後、天然理心流当主の空白期間を穴埋めすべく、多摩近在の道場まで出張稽古を行っている。

新撰組というのは、日本中から集めた浪士で編成した「浪士隊」が内ゲバと内部抗争の末に、武蔵出身の近藤・土方・沖田を中心に結成されるが、鳥羽伏見の戦いで破れる。この時期には、武蔵でも佐藤らが農兵隊を組織して幕府側について戦っているんだが、

この文久3年は多摩地方で農兵の取立てが行われ、日野宿組合を中心に農兵隊が編成された。特筆すると慶応2年(1866年)の武州一揆鎮圧や八王子壷伊勢屋での薩摩浪士捕縛などで活躍している。

戊辰戦争が勃発した慶応4年3月、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ってきた近藤勇たちを迎え、彦五郎は春日盛と称し、農兵隊(春日隊)を組織し、甲陽鎮撫隊に加わった。しかし、敗れて帰郷すると、地縁を頼り潜伏し、官軍の追及から逃れて身を隠れたが、翌月、日野宿有志の歎願により公職に復帰した。

この時には、江川英龍亡きあとの伊豆でも、英龍とともに東京のお台場を建造した大場の久八というヤクザの親分が幕府に義理立てして兵を挙げたりしているんだが、戦いに負けて捕らえられたりしているわけだ。

新撰組の末路は皆さんご存じの通りなんだが、ここに出てくる連中の末路について書いてみると、英龍の終生の友であった斉藤弥九郎は造幣寮の権判事になり、造幣寮が火事になった折、猛火の中に飛び込み重要書類を運び出すが、その時の火傷が元で亡くなる。享年74歳。武蔵の名主だった佐藤彦五郎は、

明治維新(多摩地方では「瓦解」)後は小島鹿之助らと共に近藤や土方などの新選組隊士の復権と顕彰に尽力した。現在、高幡不動の境内に「殉節両雄之碑」が建てられているが、この建立にも関わっている。1872年(明治5年)名を俊正と改め、1878年(明治11年)郡区町村編制法により多摩郡が東西南北に分けられたとき初代南多摩郡長となっている。1902年(明治35年)没。享年かぞえ76歳

英龍を助けてお台場を作ったヤクザの親分、大場の久八は、

 やがて維新戦争となり、薩、長、土、肥の官軍が伊豆へも進軍してまいりましたが、久八は代官所に義理を立て、鉄砲隊を組織して、徹底的に官軍に抵抗いたしました。
 そして、敗戦。官軍に追われる身となり、甲州は大月の猿橋へ逃げましたが、甲州の二足わらじに密告され、猿橋から三十メートルの桂川へ身を投げまして、助かり、韮山へ戻ってきましたが、すでに維新政府の韮山県が置かれ、県令に捕えられましたが、東京の芝増上寺の管長などの有名な人々の運動によって釈放となり、堅気となりまして、農業に帰りました。
 農業に励むかたわら、学校を建て、貧困の者を助け、郷土の子弟の育成に力をそそいだのでございます。
そして久八は明治二十五年十二月四日七十九才にて、大波乱に満ちた人生を終えたのであります。

という事になっております。みんな長生きだねw

で、最後に、江川英龍の援助によって斉藤弥九郎が作った練兵館の壁に掲げられていた言葉を掲載しておこう。

兵は凶器といえば、その身一生持ちうることなきは大幸というべし

来るべき世代の日本の為に、身を挺して戦ったヤツもいれば、戦わなかったヤツもいる。歴史に名を残したヤツもいれば、名を残さなかったヤツもいる。だが、歴史というのは、少数の英雄が作るものではなく、無数の無名の人物が織りなすタペストリーなのだ。

コメント(5)

江川太郎左衛門さんバンザイ\(^o^)/
ハシゲハヨ辞めいヽ(^。^)ノ

>江川英龍の援助で江戸に練兵館
>新撰組

 長州藩との関係はスルーですか、って誰かが言いそう。

「江戸三大道場の一つ、練兵館(斎藤弥九郎)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。」(桂小五郎=木戸孝允wiki)
「岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。」(井上馨wiki)
「有名な門下生には、長州藩の桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎」(練兵館 wiki)

 品川弥二郎って、松蔭の愛弟子だそうですが、影が薄いですね。知られているのは獨協中高とか京華中高の設立に携わったことくらい(といっても、獨協中高舎前の銅像は西周と天野貞祐で、品川の銅像はない)。
 2校ともかつては超名門校だったようですが、今は東京ローカルです。

「明治36年 旧制一高第三部(医学部)合格者44名中、35名は獨協生」
http://www.dokkyo-mejiro.com/100_Year/frame/index_history_09_1.html

「昔は開成より上だったのに。。。なぜここまで落ちぶれた?」(京華 2ch)

・・天野貞祐 130歳!
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E9%87%8E%E8%B2%9E%E7%A5%90&ie=utf-8&oe=utf-8&hl=ja
 ほんとは95歳でお亡くなりになってます。

坦庵さまはとにかく偉大だが、パン祖のパンはあまり美味しくなかった。
今頃は代官屋敷の庭が美しいでしょうなあ。

スレチですが気になったので。

米特殊部隊によるビンラディン襲撃作戦は出来レース、ピューリッツァー受賞の著名なジャーナリストがスクープ
http://www.businessnewsline.com/news/201505120046040000.html

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