ドンドル銃とか傍装雷火銃とか

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反射炉は、江戸防衛のための大砲を鋳造するために作られた、と言われているんだが、実は、そのずっと前から江川さんは武器を製造していた。それも、自分ちの庭で、です。韮山代官というのは、通常は江戸に詰めていて、あまり領地には赴かないモノなんだが、坦庵公は違った。今の江川邸の庭で、盛んに最新式の武器を作っていたのだ。当時では、世界でももっとも進んだ技術を持った量産工房です。

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ドンドル銃とか傍装雷火銃とか/初出/2009/3/18

さて、ドンドル銃とか、傍装雷火銃とかいう話をしようと思うんだが、まずは新聞報道で、幕末信州の「ハイテク銃」鑑定家が収集、公開へ交渉というNEWSなんだが、この世界では有名な先生らしいです。

 江戸時代末期に松代藩真田家家臣の片井京助が発明した銃を武具鑑定家で大阪市在住の澤田平さん(73)が、全国の古美術商などをまわって収集した。長野市で公開できるよう関係者と交渉しているという。

 片井京助が発明した銃は点火方法などが、当時としては先進的で、中でも火縄銃を改良した「傍装雷火銃」は、火縄銃の3倍の速射能力があったという。ただ、当時の松代藩に高度な技術があったことを疑う銃砲研究者もいた。

 真田家が所有していた銃は明治時代以降、各地に散逸していた。澤田さんは東京や京都の古美術商などから、片井京助の銃を買い集めた。銃身に署名があったり、明治政府が刻印した登録番号が連続したりしているなどの理由で、片井京助が発明した銃であることが証明できたという。

実は、この傍装雷火銃なんだが、去年の「なんでも鑑定団」に出品されて、その時には150万という値段がついてます。その時も、この先生が鑑定してるんだが、

 これを鑑定したのは、上田と松代の真田まつりで真田鉄砲隊の指揮をとる澤田平先生。銃のコレクターでもある先生は、現在国内で確認されているこの銃20丁のうち7丁を所有しているそうです。以前にも珍しい銃が登場した時、この先生は持っていると言っていました。
 先生、コレクションにいくら費やしたんだろう。

この雷火銃というのは、それまでの火縄式から燧式を飛び越えて、最新式の「雷管式」です。なんで信州あたりの山の中の鉄砲鍛冶がそんなモノを作れたのか、不思議といえば不思議なんだが、鉄砲マニアのサイトによれば、

信州松代藩士片井京助が江戸時代後期に造った新式騎兵銃。片井は藩命でこれ造ったが、藩はこの銃の余りに強力なのを恐れて秘密主義を取り、厳重に管理したので、国難の折にこの様な発明を公表しないのは大儀に反するとして片井の実子佐野三郎は銃を持って脱藩し、開明的な老中阿部伊勢守定弘の元に銃を持ち込んだ。幕閣はこれを受けて松代藩に銃の献上を求めたので、この銃は公開されることとなり、試験射撃で頗る良い成績を収めた片井は古作の鞍と鎧を拝領した。

さて、この銃がどういう仕組みなのかというと、雷管式と言っても「薬莢」できないわけです。おいらも現物を手にしたわけじゃないんだが、

薬室部の前方右側銃床に真鍮性の104㎜×14㎜の箱を取り付け、この中に150㎜×11㎜×11㎜の口火用の火薬玉を容れて置く容器をスプリング仕掛で差し込んで置いて、射撃する際にこの容器の前端を押すと、火薬玉が一粒ずつ火皿の中に落ちると言う仕組みになっており、これを傍装と言う。またこれに撃鉄で点火するので、騎乗していても雨天でも使用可能である。この銃は通常の火縄銃が1発撃つ間に3発は撃てるとされた。

ここで書かれている「火薬玉」というのが、いわゆる黒色火薬ではない、雷汞を丸めたモノだったらしい。雷汞というのは、黒色火薬と違ってわずかな衝撃でも爆発するわけで、火縄も火打ち石も要らないわけです。で、世界史の中の銃の歴史を眺めてみると、こんな感じです。

1832年 モーゼル、プロシアで前装式撃針銃の薬莢を発明
1836年 ドライゼ銃(ドレイゼ・ライフル)登場
 撃発式発火装置をもちいた世界最初の銃(注:薬莢は紙製) 
 中心撃ち薬莢を用いるボルトアクション式の後装銃
1836年 パリの銃工ルフォーショウが元折式の後装式雷管銃を発明。この形式の銃は近代式猟銃の基本となる。
1840年頃 欧州では前装式滑腔火打石銃が制式軍用銃としては使われなくなる
1841年 プロシア陸軍、ドライゼ銃を制式採用
1841年 日本の小山杉渓、『雷撃銃略記』という翻訳書で雷管銃を日本に紹介
1842年 日本の吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製
1848年 佐賀藩が制式小銃として火縄銃を廃止して火打ち石式の小銃を制式採用
1850年頃 江川太郎左衛門が門人の松代藩士 片井京助に雷管銃を作らせる  
1853年 ペリー来日
1855年 徳川幕府、オランダより小銃製造に必要な各種工作機械を輸入
1856年 片井京助が日本初の後装式雷管銃を完成させる
 幕府は製造技術が伴わないという理由から制式採用せず
1861年 シカゴの医師ガットリングが銃身回転式機関砲(機関銃)を発明

ここで、日本では1841年に吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製とありますね。この人は尾張藩の藩医で、蘭学者です。ちなみに天保十四年九月二日雷汞粉製法の研究中、爆発を生じ、死去。となっていて、当時は軍事研究というのも命懸けだったんですね。火縄銃というのはそんなに危険なモノではないんだが、

16~17世紀あたりの紙巻き黒色火薬に鉛玉の「弾薬」なら、硝石と硫黄と人並みの知識があれば台所ででも作れる。19世紀後半に登場した雷管式の弾薬となると、さすがに化学実験室並の設備、薬品と化学者としての常識、技術に加えて精密工作の設備、技術が必要になる。

けっこうヤバイわけだ。つうか、ヨーロッパでは17世紀に火打ち石を使ったマスケット銃というのが登場して火縄銃にとって代わっているんだが、火打ち石というのはなんせ「打つ」衝撃で火花を発して火をつけるわけで、打ったショックでブレるため、命中率が悪いという欠点を持ってるわけだ。なので、マスケット銃を使った戦闘というのは、兵士の整列間隔を詰めて面積あたりの火力を濃くして弾丸をばら撒くという戦闘法になるんだそうで、日本ではあまり普及しなかった。それが、この傍装雷火銃によって雷管式銃が広まり、戦闘法が一変する。

 次に銃の革命がもたらされたのは、奇しくも幕末維新の時代であった。1850年代に実用化した雷管や元込式装填装置、尖頭弾と旋条といった技術は、銃単体の性能と歩兵戦術の両方を一変させたが、日本人は速やかに最新戦術をマスターした。戊辰戦争を戦った薩長諸藩や幕府陸軍の兵士は、ナポレオン戦争のような隊列すら組まず、分散して物陰から遠距離射撃する散兵戦術が一般化した。そして新戦術の変化に対応した軍事化の必要性は、あっという間に封建制の廃止まで行き着いてしまった。
 同時期のアメリカの南北戦争では、新式銃器による新戦術の定着まで、まる五年間の歳月と60万人の死者を出したのだから、日本人の軍事技術の学習能力は高かったと言ってよい。アメリカ映画『ラスト・サムライ』に登場する政府軍は南北戦争前期の横隊戦術で戦っているが、実際の西南戦争の政府軍と薩摩軍は、それより進歩した散兵戦術で戦っていたのである。

日本人は、なんでも「学ぶ」のが早いですw で、この、日本の歴史を変えた「雷管式」銃なんだが、なんで信州の鉄砲鍛冶がそんなモノを作れたのか? 雷汞はどこから手に入れたのか? その答です。

さて。伊豆韮山。
現存する唯一の反射炉のある韮山は幕府の代官であった江川太郎左衛門英龍が7千両を超える大金を投じて作ったものだ。

江川太郎左衛門英龍。
天保14年12月には門人(松代藩士)の片井京助が二匁八分のドンドル銃(傍装式雷管銃)の製作に成功。
英龍は屋敷の裏門西側に銃器工場を立て京助の開発した雷管銃の量産を開始。

このとき親友の川路聖謨に特性の護身用短銃を製作し贈ったという。

またしても長い前フリでしたねw そうです、江川さんです。この信州の鉄砲鍛冶は、江川さんの門下だったんですね。年表では1850年頃と書いてあるんだが、実際には天保14年なので、1843年には完成してます。尾張藩の吉雄常三が火薬製造中に爆死した年です。で、さっそく江川さんは自宅の庭に工場を建て、ドンドル銃の量産を開始する。

 この英龍が発明したのが、いわゆる「ドンドル銃」です。当時、銃は火縄銃か火打銃であったものを、引き金で雷管を打つ銃をオランダの書物で研究しながら発明したといいます。また、「ドンドル銃」のために「雷粉」という火薬も製造したそうです。

 三上参次が駒込林町にあったといっている「ドンドル製造の小屋」とは、江川英龍が発明した「ドンドル銃」や「雷粉」と関係があるのかもしれません。

 幕末・明治初年の駒込林町の周囲一帯は、原っぱも多かったことでしょうから、「ドンドル銃」の試し打ちの狩りなども行われていたのでしょう。確かに恐ろしい話です。

 英龍が建設したという品川台場あたりは、いまでは、恋人のデートコースになっているようです。わたくしは、どういう訳か一度もお台場には行ったことがありませんが、「江戸東京」を機会にお台場にも足を向けることになりそうです。

駒込のあたりとか板橋・徳丸ヶ原とかが射撃練習場だったらしいね。で、江川さんというのは高島流砲術の大家で、今で言う軍事マニアなんだが、一生に一度も戦争はしてないです。戦わずに済ませるのが良い軍人です。その代表的な例がマリナー号事件です。

時は1849年、嘉永二年閏四月、英国の軍艦マリナー号が日本の沿岸にあらわれ、相模湾で勝手に測量を開始、さらに下田に移動し、そこでも勝手に測量をはじめ、下田奉行の退去要請を無視して動かなかった。以前から外国船の出没に懸念を感じていた江川英龍公は、ここで韮山代官として立ちあがる。

当時は幕府も緊迫財政で貧しかったため、役人が粗末な衣装だったのでバカにされたのだ、と、三越デパートから最高級の陣羽織と袴を取り寄せる。ふだんは木綿の単衣物しか身につけない江川さんの、立派な姿にみんな驚いたそうです。この時身につけたのが、蜀江の錦と呼ばれる袴ですね。こちらに写真があります。三越ってのも与太じゃないよ。当時は「越後屋」と言って、すでに有名な呉服屋だった。部下の手代にも新調の割羽織を着せ、さて、率いる部隊は総勢50名の兵士たち。全員、最新式のドンドル銃を担ぎ、揃いの高島流軍服です。

その数年後にやって来るペリー提督が持っていたのが火打ち石の銃だったというんだから、雷管式のドンドル銃というのは、1849年当時では最新鋭ですね。英国軍のマセソン中佐も、まさか、それが江川さんちの庭で作られたモノだとは思わなかっただろう。ついでに言うなら、50人の兵隊というのも、近所の百姓です。いわゆる農兵ですね。江川さんは農兵の元祖です。これが、「右向け右」「前へ進め」と号令一下、整然と行進するわけだ。この号令も江川さんの発明です。高島流軍学ではオランダ語の号令でした。百姓はオランダ語は判らないから、江川さんが翻訳したのです。で、この半ばハッタリの威力でマリナー号を追い返すんだが、おかげで日本はイギリス領にならずに済んだわけだ。おいら、この時の銃は「パーカッションロック式」だと思っていたんだが、「ドンドル式」だったらしいという、まぁ、そんな話です。

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>親友の川路聖謨に特性の護身用短銃を製作し贈った

 幕末きっての能吏ですが、晩年は中風で半身不随となり、官軍による江戸総攻撃予定日に短銃自殺しています。
 江戸時代の侍といえば旗本退屈男のイメージですが、幕府きっての能吏ともなるとそうもいかず
「午前二時に起きて執筆、読書をし、夜が白んでくると庭に出て、刀の素振りと槍のすごきを平均二千回行う。その後来客の相手をし、午前十時に江戸城に登場、午後五時まで勤務する(この時代の役人の勤務は普通十時から二時まで)。家に戻るとすでに客が待ち構えているので、一緒に晩飯を食べながら話を聞く。酒は飲んだが一合までで、それ以上は絶対に飲まない。客の応接が済むのが午後十時頃で、それからまた執筆、読書をして十二時に寝る。」(wiki)毎日だったとか。これじゃ中風になるのもしょうがない。

>駒込林町

 いまの文京区千駄木3丁目から5丁目にかけての高台の住宅地です。千駄木というと庶民的な町のイメージがあるかもしれませんが、3丁目から5丁目はれっきとした山の手です。戦前の山の手のブルジョアの暮らしを伝える建物として「旧安田邸」があって、一般公開されています。
http://www.national-trust.or.jp/properties/y-tei/y-tei.html
 邦楽の演奏会といったイベントもあって、その日は一般公開してませんので、興味のある方はHPで確認してから
が無難です。

>ドンドル小屋

 昔の駒込千住林町169番地 いまの千駄木五丁目13番だそうです。旧安田邸から200メートルほど駒込高校よりの高台で、いまは普通の住宅街です。
 維新後の土地暴落時には1000坪が15両だったとか。
http://homepage3.nifty.com/sisoken/edotokyo8.html#Edotokyo80

 あと、もうひとつの英龍さんの偉業の種痘ですが、江戸で種痘所が開かれたのは川路邸の一角(岩本町2-7)だそうで、開かれたのは英龍さんの死後とはいえ、なんらかのつながりはあったのでしょうか。
 この種痘所が東大医学部発症の地だそうで、江川さんは慶応大学だけではなく東大の発祥にもつながりがあったのかもしれません。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/289/Default.aspx

 あと、ドンドル小屋のあった場所ですが、鴎外や漱石が旧居を構えていた場所からもすぐ近くです。ワタミの夢学園(我輩は猫である、の落雲館)の近くでもあります。

米の天才銃開発者のジョンブローニングが、奇しくも
英龍公が亡くなった1855年に生まれたのは歴史の不思議ですね

ジョンブローニングは様々な革新的発明を銃にもたらし、
彼の開発した自動拳銃コルトガバメント1911や
現代の自衛隊でも採用されている機銃ブローニングM2は、
開発後100年超えてもそれを上回るものが無いため未だ使われ続けてます

 いま気づいたんですが、「落雲館」って「落運館」と読みがいっしょ。漱石も、かなり悩まされたんでしょうな、この学校には。
http://d.hatena.ne.jp/gustav5/comment?date=20110814

>機銃ブローニングM2

 この機銃の気違いじみた点は、狙撃銃にも使えるほど集弾性が高かったということでしょうか。真助っ人(マスケット)銃じゃないが、機銃なんて、適当に弾がばらけるくらい精度が低くてよさそうなものですが、ブローニングさんは、そうは考えなかったんでしょうね。

 集弾率が良すぎるのが欠点という説について
「しかし集弾率が良過ぎて、しっかり狙わないと動き回る敵には当てにくい。~」
http://bf.xxz.jp/wiki/?cmd=edit&page=%CA%BC%B4%EF%C5%EB%BA%DC%C9%F0%B4%EF&id=l4a81bf2

 伝説的な命中精度について
「1967年には、谷の向こうに陣取るベトナム兵をユナートル社製の10倍スコープを装着したブローニングM2機関銃の単発射撃で仕留めており、その狙撃距離約2500ヤード(約2300m)の記録は、各種兵装が科学的に進歩した2002年、アフガニスタンでカナダ軍のロバート・ファーロング兵長によって破られる(マクミランTAC-50長距離狙撃ライフルによって、2430mの距離からタリバーン兵の狙撃に成功した)まで35年間破られることはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF

この頃の銃って、いくら命中率が上がったと言っても、引き金を引いてから発射されるまでのタイムラグで銃身がブレるし、銃床がないので命中させようと思うとかなりの熟練が必要なんじゃないかな?

で、戦闘における鉄砲は命中率は二の次なのよ。
とにかく、バンバンでかい音がすると敵は戦意喪失するのよ。
今のロシア・内モンゴル・中国東北部あたりに出兵した爺さんが言っていた。

『俺らは陛下から預かった大切な弾だから大事に扱った。命中率は百発百中よ。露助の弾はちっとも当たらないけど、とにかく弾をバラ撒くんだ。しかも、やたらと音がでかい。それで自分たちは一歩も動けなくなるんだ。結局負けた。』

だから、手数が増えるのは戦闘に有利。

>で、戦闘における鉄砲は命中率は二の次なのよ。
とにかく、バンバンでかい音がすると敵は戦意喪失するのよ。

 ロンメル将軍が、世にロンメルあり、と最初に知らしめたのは、アルデンヌ越えのフランス電撃戦ですが、配下に命じたのは、敵がいそうなとこにまず銃弾をばらまけ、ということだったとか。
 いくら当たる確率は低いと頭では分かっていても、弾幕を張られると、それを無視して反撃はしづらいというのが人の心理のようです。
 で、そういうのを超越しているのがパリ解放のときのド・ゴール将軍(というか中佐だよね)。ドイツの狙撃兵の弾がパンパン跳ねてる中を平然と行進していたっとか。

>信州松代藩士片井京助

この人のお話は、中学時代に読んだ記憶が…
雷汞の実験中、小爆発を起こしてしまい、負傷した
こともあったかと。

>川路聖謨

この人はルフォショーのリボルバーで自殺したと
記憶しています。

いずれも記憶に頼って書いています。
間違っていたらすみせぬ(-_-;)

それに比べて、俺が日に日に、やっているコトといえば、
人様のブログへのカキコミとか、艦コレとか。

今晩からE6です。

>当時では、世界でももっとも進んだ技術を持った量産工房です。
 
つまり、そう言うのを薩長土肥明治政府が潰して回った、ガイジンの手羽先なので、と言う事なのかなぁ?

長崎の蘭方医柴田方庵の日記嘉永2年4月2日の条に「朝より昼前迄ドンドルパッピール製造。七拾八本之内、七八本作之節発ス。可恐事也。雷銀ハ四分程之分量也」とあり、ドンドルパッピールとは何かと、調べていたらこちらのページにたどり着きました。方庵は医者でありながら長崎奉行所の庭でシュンドルスの火薬を作っていたりします。
ドンドルパッピールとはドンドル銃の火薬のことでしょうか。

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