田端義夫死す

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田端義夫が死んだらしい。日本一のブルースマンだった。しばらく前から活動は停止していたので、そろそろお迎えが近いのかなぁとは思っていたんだが、まぁ、年が年なので仕方ないです。というわけで、つい半年前に掲載したエントリを再録します。初出2012/12/6



田端義夫です。まだ生きてます。93歳です。

大正8年(1919年)三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調であった。トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、みずから音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく(板切れで作った音の出ないギターを"イター"と呼んでいたそうだ)。

昭和13年(1938年)、ポリドールレコードの新人歌手北廉太郎の宣伝のため「伊豆の故郷」を課題曲とした新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場することを姉から勧められ、優勝する。
19歳でデビューしているんだが、それまでに転々とした職が17。煎餅焼く手に涙が落ちる、と平岡正明が書いていたな。小学校中退です。この時代は、小学校しか出てない人がいっぱいいた。おいらの親父も、小学校出ただけです。頭が良くても貧乏で進学できない人は、たいてい「書生」になるんだが、おいらの親父は、西武の堤康次郎のところの書生だった。田端義夫は、ポリドール社長の書生になって、そこからデビューのチャンスを掴む。デビュー作は「島の船唄」。さらに、「大利根月夜」「別れ船」と、次々にヒットを飛ばす。これ、戦前の話です。70年以上前です。



ところで、こういう活躍した期間が長い歌手というのは、同じ曲を何度も吹き込んでいる事が多いんだが、レコード会社さん、最初の吹き込みを集めたベスト盤作って下さいよ。



田端義夫の人生を決定づけたのは、何と言っても「別れ船」だ。この時代、疲弊した農村の次男、三男が、次々に満州開拓団として送り出され、また、兵隊として中国大陸に送られる。そんな旅立ちを歌ったのが、この「別れ船」です。そして、敗戦。



ボロボロになって復員船に乗せられた復員兵たちが、鈴なりの甲板で、懐かしい日本の港を目にした時、近づくにつれて聞こえて来たのが、この曲だった。田端義夫「かえり船」。日本を出た時と変わらない、あの田端義夫の声が、港の拡声器から流れていたのだ。



戦後も、長く歌謡界の第一線で活躍した。米国ナショナル製の傷だらけエレキを胸元に抱えて「オーッス」と出て来る姿は、まだ記憶に新しいですね。あのギターは、何十年の使い続けているらしい。少なくともおいら、物心ついてから、田端義夫がアレ以外のギターを抱えているところを見たことがない。



そんな田端義夫の終戦直後の吹き込み。アコースティック・ギターの伴奏だけで、リードギターは田端義夫本人です。

元々、『ズンドコ節』は『海軍小唄』(かいぐんこうた)と呼ばれていた。軍歌の一つと言われる事もあるが、実際の所は、戦地に赴く男たちの本音を歌った流行歌のような物である。作詞者及び作曲者は不詳である。1945年頃に流行った曲である。

作詞・作曲者が不詳であり権利上の問題が発生しないため、多くの歌手によってリメイク版が製作されている。なお、リメイク版の多くは七五調の歌詞となっている...

戦後まもなく田端義夫により『ズンドコ節(街の伊達男)』としてリリースした物がヒットする。この時初めて『ズンドコ節』の名前が付く。田端のエレキギターによるリードギターと伴奏のアコースティックギターの二本の演奏によって歌われている。演奏は当時流行していたブギのリズムに乗った軽快かつブルーステイストに溢れたもので、それ以前の流行歌におけるギター演奏にはないポップな感覚があり、日本ポップス史の観点から見て特筆すべきものである。田端は四国への巡業のため大阪の天保山から乗り込んだ連絡船の中で、闇屋が歌う歌に感銘を受け、それをブギにアレンジして昭和22年(1947年)に吹き込んだ。歌詞の内容は『海軍小唄』を当時の伊達男の恋に置き換えている。
おいら、昔から「田端義夫は日本一のブルースマン」だと主張して来たんだが、まさにそんな一曲です。



田端義夫の凄いところというのは、これだけのキャリアを持ちながら、懐メロ歌手にならなかった事だ。島育ちで大ヒットを飛ばして現役である事を証明したのが昭和37年です。このあたりから、かろうじておいらの記憶に残っているリアルタイムです。



「まだ現役だ」と本人が意気込んで吹き込んだのが、この「十九の春」。田端義夫が得意とする琉球民謡系の歌で、昔から歌い継がれたものらしい。結構ヒットした。



ところで、TVでは判らない事なんだが、公演に出ると田端義夫はギター抱えて客席に降り、一人一人に語り掛けながら弾き語りするのだそうで、そういや有名なエピソードだが、取材かなんかで、「あいりん地区で田端義夫が歌う」という企画があり、カメラマンが田端義夫を連れてあいりんに行ったら、突然、打ち合わせにないのに、ギター抱えて弾きながら歩きはじめ、慌ててマネージャーがアンプ抱えて後を追った、というんだが、どっかからワラワラと人が湧いて来て、路上コンサートになってしまったらしい。おいらがTVで見たものでは、普通の住宅街でそれをやっていたな。誰もいない路上で弾き語りしながら歩いていると、どっかから婆さんが湧いて来て、「あっ、バタやんだ」とw TVの歌謡ショーに出演しても、ちゃんと自分のギターの音は入れてますね。田端義夫のギターは、クリーンないい音してます。





そんなバタやん、最新作のアルバムは童謡だそうです。

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すでに故人だが、父親が台湾からの引き上げ者だった。
定年の前くらいに「まだ田端義夫もがんばってるしな」と言っていたことがあって、なんで急に田端義夫が出てきたのか(別にファンでもなさそうだった)、不思議に思った記憶がある。
戦中派にとっては「帰り船」「もどり船」というのは、単なる歌謡曲ではなかったのかもしれない、などとyoutubeでバタヤンの歌を聴きながら考えた。

ああ、間違えた。
「帰り船」「もどり船」→「別れ船」「かえり船」です。

ついでにこれも。聴いてみたらいい歌でした。
http://www.youtube.com/watch?v=J0J1l-BgwiE

RIP

「レコード会社さん、最初の吹き込みを集めたベスト盤作って下さいよ」
私は古い洋楽が大好きなので、この気持ちはよく分かるような気がします。できたら、パーソネルも正確に調べて。
ところで、戦前の吹き込みでもエレキなら、手製のものでしょうか。アメリカでも、スティールギターがまずエレキ化され、そのピックアップをアコースティックギターにつけて弾いていたエレキギタリストが何人かいたようですが。

田端義夫があのギターを使い始めたのは、せいぜい1950年代末から1960年代に入ってからではないかと思う。1980年代だったか、TV番組か何かで「28年間使っている」と言っていたような気がする。

その80年代に見た「乾杯!トークそんぐ」だったかで、
「昔から歌ってる曲もキーは絶対に下げない」って言ってたよ。

海外のホテルで女の子呼んだときに、手招きするつもりで
おいでおいでってしたら、海外の場合は掌を下に向けてやる
と帰れ帰れ!という意味にとられておこって帰ってしまった
って話してた。

バタやんのあのナショナルのギター、20年前ぐらい前かな、
ギターマガジンに載ったことがあって、ネックの裏、何箇所か指の当たる所が大きくえぐれてしまったのを木で埋める、というぐらい弾きこまれている。
並大抵の弾きこまれ方じゃそんな事には絶対ならない。
本当に毎日毎日、何十年もあれを弾いて弾いて..
雨だれが岩をえぐる如くネックが磨り減ったと..

上の童謡の動画の冒頭、精度の高いストロボ型のチューナーで
丁寧に細かくチューニングしてるシーン見ても、
こういうのが本物のプロなんだなぁ、と思いますね。

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