三島が三島と呼ばれるには

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初出/2007-10-09



三島駅で降りて、南口から坂をくだって来ると白滝公園に出る。そこで東に曲がって桜川沿いに歩くと三島大社に出るんだが、その角に赤いポストがあるわけだ。このポストはインチキで、飾られているだけ。たまに郵便物を投函しようという人がいて、口がふさがれているので戸惑っている。で、桜川から分流した一部が、搗屋のみちに沿って流れ、御殿川となって赤橋に至る。赤橋には丸勝製麺所の売店があっておいしい麺類を売っているんだが、それはさておき。

DSC_3645.jpg

赤橋のある裏通りは、実は鎌倉古道の跡である。鎌倉古道というのは何か? 実は、延暦年間に富士山が大噴火を起こして、旧来の道が使えなくなったために、箱根を越えて芦ノ湖に至る道が開発されるわけだ。これを鎌倉古道と呼ぶ。それまでの、都と東国を結ぶ道はどこを通っていたのかというと、三島は通っていなかった。静岡大学小山研究室の研究によれば

 延暦噴火堆積物によって埋めつくされたという「足柄道」が御殿場付近から足柄峠を越える道だと考えると,その付近に堆積した3)のスコリア層の厚さが,等層厚線図から考えて2cmに満たないことは確実である.仮に延暦テフラが他の湯船第3スコリア群中の一枚だとしても,足柄付近の厚さが薄いことに変わりはない.よって,富士→三島→御殿場→足柄峠という富士山南麓~東麓を通る東海道のコースを考える限り,「噴火堆積物に道をふさがれた」という記述は実際のテフラ分布と矛盾する.
 これに対し,古代東海道が富士宮→富士五湖→籠坂峠→御殿場→足柄峠という富士山北麓を通るコースであったと仮定すると話は一変する.延暦噴火においては,富士山北西斜面においても天神山―伊賀殿山噴火割れ目(宮地,1988,地質雑)の噴火がおき,それにともなう降下スコリアと溶岩流が富士山北西麓の広い範囲をおおったことがわかっている.

まぁ、富士の宮ではなく沼津から大岡を経由して246号線を東に向かったという説もあるんだが、いずれにせよ、延暦年間までの東海道は三島を通ってなかったという事になるわけだ。まぁ、常識的に考えて、御殿場を経由するんだったら、わざわざ三島を通る必要はないわけでね。実際、国鉄の東海道本線もまた、丹那トンネルが開通するまでは沼津から御殿場にまわっていた。古代の沼津は今よりズブズブで地盤の悪い湿地帯だったらしいので、そこも避けるとなると、富士の宮から北上するというのは自然だ。なんだか遠まわりのようにも思えるんだが、目的地は東京ではないので、別に遠まわりでもない。

で、話は伊豆の国府だ。

天武天皇9年 (680年) 7月に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して設けられた。大宝元年 (701年) から和銅3年(710年)までの間に、仲郡(後の那賀郡)が成立し三郡となった。律令法においては遠流の対象地となった。これは伊豆諸島が隠岐・佐渡と並んで辺境の島であると考えられ、伊豆半島はその入り口とされた事が背景にあると言われている。江戸時代(文禄から元禄の間)に君沢郡が分けられ、四郡となった。

というわけで、7世紀になって駿河の国から分割して作られている。つうか、そもそも7世紀の末まではあまり中央の権力が及ばない化外の地だったんじゃないか、という気もしないでもないんだが、三島における人間の足跡というのは旧石器時代から続いているわけだ。縄文、弥生、古墳時代の遺跡が発見されるとともに、奈良時代に箱根で狩猟生活をしていた人がいる事も判っている。観音洞(かんのんぼら)遺跡というのがソレなんだが、箱根西麓には縄文遺跡が多くて70箇所もあるんだが、時代がさがって奈良時代にもまだ、縄文のままの生活をしていた人がいるわけだ。この時代、伊豆でも平地では稲作が始まっているのだが、山の奥深くで、税金を払わずに縄文生活をしていた人がいた証拠だな。で、そんな縄文人の末裔と、稲作をはじめた弥生人の末裔とが暮らしていた土地に、中央の権力の象徴である国府がやって来る。

 伊豆国の創建当初の国府はどこにあったかについて諸説があります。例えば
1 大仁町田京にあったのを聖武天皇(724~749)のころ蝦夷征討のため三島へ移した。
2 平安時代延暦年間(782~806)に箱根山路開通によって国府、国分寺を共に移した。
3 当初から三島にあった。
などです。

『三島市誌(昭和33年版)』は関係遺跡などを調査発掘の結果、奈良時代の条里(じょうり)遺跡(いせき)、それ以前の寺院跡、その他を考察して、伊豆国府は当初から三島にあったと考えられると結論づけています。
 ただし、国庁の位置などで、今後も議論、研究が続くものと思われます。

もっとも、今ではけっこう細かいところまで判明している。文頭であげた搗屋のみちなんだが、あのあたりが国府の建物があった場所らしい。

 奈良時代に造られた国庁は現在の芝本町の辺りで、南は芝本町と本町の境の東西道路、北は楽寿園の南側、東は圓明寺、西は源兵衛川の辺りに2町四方(218m四方)の広さをもっていて、築垣で囲まれた役所だったと推定されます。

 現、ツバメタクシー営業所の東を北に入った池田病院の石垣の一角に、軽部慈恩(かるべじおん)日本大学教授の建てた「国庁跡」と刻んだ石碑が残っています。国庁とは国司の行政役所のことです。国司は中央から派遣される朝廷官僚ですので、国庁は今風に言えば中央政府の地方役所ということになります。その国庁の所在地を国府と言いました。この三島の地が伊豆国府であったわけです。
 平安時代の中ごろになって、国分寺・国分尼寺が焼失したため他の寺に移され、国庁もこの両寺のある町の東方の元の長谷町(現、大社町)に移されたものではないかと言われています。

もっとも、国府の建物というのはずいぶんと広い範囲にあるわけだ。なんせ古い時代なので、今の静岡県庁みたいに高層ビルを建てたりしない。みんな平屋だ。なので広い敷地を必要とする。今のところ判明しているのは、三島大社の境内から発掘された掘立柱が国府の跡ではないか、とか、御殿川沿いの中島遺跡が、田方郡の役所であり、水運を利用した倉庫だったのではないか、とか、言われている。

さて、ここで古代の三島を考えてみる。まず、
三島は三島という地名ではなかった。三島が三島と呼ばれるようになるのは三島明神が誘致されて三島大社という神社が出来たからであって、それは平安中期以降という事になっている。680年に現在の三島市に国府が出来ると、天武・持統両天皇の仏教化政策によって全国に寺院建立ブームが起き、独立間もない伊豆国でも国府に、大興寺(市ヶ原廃寺)、山興寺(塔の森廃寺)、天神原廃寺が建てられる。伊豆国分寺が建てられるのは天平時代だ。まず、国府の関係官庁が赤橋の丸勝製麺所周辺に作られ、郊外にいくつかの寺が作られる。更に、国府の西側に国分寺が建てられ、やがて、平安中期以降になって三島明神が今の三島大社に誘致される。その際、そこにあった若宮八幡社は国分寺の外側まで追い出される。

と、ここまで来てやっと、今の配置が完成するわけだ。東から、三島大社、国府、国分寺、若宮八幡社という位置関係だな。コレが何を意味しているのかは、夜食を食ってから書きます。

コメント(7)

上板橋に鎌倉街道があるんですが繋がっていたとは。

ネットゲリラ・クラシックって新カテですか。

写真ネタもたまにはやってほしいです(´Д`)

ゲリラでもなんでもないやんw

三島大社は「三嶋大社」です。

今年九月末に、もと三島市長の小池さん(日蓮宗の坊さん)と三嶋大社宮司の矢田部さんが結託し、「宗教と環境」講演会を三嶋大社社務所で開催しました。
愚生も末端で一枚噛んでおります。
来年は、もう一段デカくやりたいと考えています。

>もう一段デカく

愚息がもう一段デカくでは?w

日本の宗教観って空気みたいなので良いんじゃないですかね?
頭皮に血管が浮くみたいなのじゃなくてww

˃日本の宗教観って空気みたいなので良いんじゃないですかね?

御意。日本人同士なら以心伝心が可能だと感じます。

ただ、頭皮に血管系の毛唐どもとケンカする際には、腹中にナニもないテイタラクではドツキ合いもできぬまま子分にされてしまいます。

最近は佐藤優さんの右巻・左巻を読んで武装を心がけています(笑

odinnさんの愚息の件について?w

>ドツキ合いもできぬまま子分にされてしまいます。

その点に関しては、頭皮とチンコに血管が浮く感じでw

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